幸せについて本気出して考えてみたっていうか通常が本気出して考えてる状態

15歳~22歳というそう短くなく、人格形成にも重要な時間を変人の楽園で生きた。楽しいばかりではなくてよく発狂寸前というか発狂してましたけど、15歳まで抱えていた(自分はこの世界の仕組みに適応できていないんだろうか?)という不安に関しては思い思いに生きている人達の中に身を置いているうちに考えるのがばからしくなった。

性根なんて治るものでもなく、まあいいか。と思った。なのに、大人になるにつれて生きる世界はシンプルになっていく。結婚・出産。種の保存という生物としての大正解が示されていく。うちらも動物だしね。


シンプルな世界の仕組みのなかにいて、こころはどんどん複雑になってしまう。かつての楽園の住人たちのなかにもその大正解と自分の幸せが一致した人生を生きている人も少なくない。それはとてもすてきなことだ。心から喜ばしく思う。だからといってわたしの幸せを不正解じゃん...みたいな顔をしてくるのであれば、なんなん?って思います。大正解イコール誰にとっても幸せなものではない。というのはもう多くの人が言っていることだから私からわざわざ言わないけど。大正解が正解なんじゃなくて、自分の幸せと大正解が重なっているだけだとどのくらいの人が気づいているんでしょうか?いつか大正解から逸れる日がきても不安にならず、あなたはあなたの幸せを生きてくれ。と願う。


"だって、「幸せそう」って思われたい!"


4年前、女性誌の表紙に登場した見出しだ。


当時大学4回生だった私は"幸せになりたいんじゃなくて幸せだと思われたいなんて寂しいな"と思っていた。自分の心と一致しない、トロフィーとしての幸せを見せびらかすことは寂しいことだろう。だけど、自分が幸せと思っているときに周囲から幸せそうだと思って欲しいよな~〜。不幸判定マジきついよな〜~。ウソでもついて勝手に知った気になってもらうしかないですか?


幸せだと思われたいのは攻守でいうと攻撃、マウント的な気持ちだと解釈していましたが、4年の時を経て守備かなって思う。自分の幸せが幸せとして成立する世界を守るためのもの。そうはいっても私には出来ないなあ。


みんなも幸せについて考えてみてよ。答え合わせして全然あってなくても、そこにわたしがいなくてもみんなのこと愛してるよ。まじで!