よむ

 最近、猛烈に活字を追いたくなり、小説を呼んでいる。

読み直している作品もあるし、初めて読む作品もある。私は、主人公だったり、主人公を傷つけたり疲弊させてしまう人達だったり、あらゆる登場人物に自分を見る。それは嫉妬・不安・自己嫌悪・怒りとか、あまりよくない感情であることが多い。


途中まで読んだ本を閉じて眠ろうとするとき、乱雑にしまって封印した思い出のひとつひとつがよみがえってくる。感じた気持ちがくっきりと、言葉になる。ぼんやりと不自由に感じていたことが具体的に言語化されてしまうことは、すごい鋭さをもつと知った。


誰かの言葉や行動に傷ついたこともあるけど10代の時なんか誰もが自分の立場を守ることに必死だったのだし、仕方なかったと思う。

自分が上手く生きられなかったのは彼らのせいではない。出席番号が早くて自己紹介がうまくいかないこと、名前が古臭いから、容姿が醜悪だったこと……それらもあったとは思うけれど……やはり、私の性根が腐っているからだつた。直接的に人を軽んじたこともあれば、誰かになにか言われたときに被害者らしい顔をして、それがその”誰か”をいじめる口実になっていたこともある。それを見て、ざまあみろなんて思っていた。きたない。じぶんだけ傷ついた顔をするなんては浅ましい。と、結局、自分に矢印が向かう。私が過去の自分を責めたところで傷つけた人達は報われないどころか怒るだろう。私も、自分を軽んじた人達には、存在ごと忘れて欲しい。わたしがしてることは懺悔というより自慰だ。「私は自分を省みることが出来る。人の心がある、大丈夫、大丈夫、」と。気持ち悪すぎる。最低だ。

 

  きっと、クラスのヒエラルキーなんて何処にでもあることで、私のような人だって沢山いただろう。みんな平気じゃないけど平気みたいな顔をして生きているのだろうか。そもそもうしろめたいことが何にもないなんて人はいないのかもしれないけど。

私だっていつもこんなことを考えている訳じゃない。いくら自分に嫌気が差しても人生を閉じる気にはならないし、与えられる愛や優しさに甘えてしまう。文章にして、見える形でこれを残すのも甘えだ。何に、だれに許されたいのかはわからないけど、ゆるしてほしい。