完食

ハンバーグは3ヶ月に1回

著名人の見ました印が怖い

突然だが、私は好きなアーティストのSNSにリプライを飛ばしたり、ツイートに彼らの名前を入れることができない。褒めるときも検索避けする。

現代を生きる彼らはエゴサを怠らない。ぬかりない。

そして肯定的なツイートをいいねしたりリツイートする。これを私は見ました印と読んでいる。見ました印をすることで彼のフォロワーや、アカウントにたどり着いた人に自分がいかに魅力的なアーティストであるか、支持を集めているかをアピールすることができる。

SNS上で好きという気持ちや感動を素直に綴るだけでプロモーションに貢献できる。なんと気軽かつ素敵なことであろうか。好きの気持ちを本人に伝わる形で気軽に発信できるこの時代は本当にすごいし、それはよっぽど気持ち悪い言い方じゃなければ本人が目にしたとしても悪い気はしないと思う。それを頭では理解しているのに、どうも恥ずかしいような怖いような気持ちになってしまい、わたしはツイートに微笑みながらいいねをつけるのみにとどまってしまう。握手会やインストアイベントも苦手である。だいたいこういうのは行かなかったら行かなかったで後悔するので足を運ぶのだが緊張のあまり吐き気に襲われながら細い声で「おうえんしてます、」と言うのが精一杯、挙動不審ぶりに「大丈夫?」と心配されるのが常である。

SNSもインストアイベントも、向こうからしたらこちらはファンでありそれ以上でも以下でもないと思うが、一瞬でも個として認識されると思うと恥ずかしいような怖いような気持ちになる。

私は10代の頃から生態が変わっていない。好きな人の動向をこっそり、かつしっかり見る、でもそれがバレないようにさっと物陰に隠れたり、見てないですよ感を出してみたりするキモい陰キャの女子のままだ。ファン活動はそんな根っからキモい私でも(アーティストに実害がないことは大前提として)中学生活のように好意がバレることで汚物扱いされることはない。好意を伝えて「帰れ」とは言われない。それどころか目を合わせて「ありがとう」と返してくれる、笑顔を向けてくれる。

ガチ恋というよりはめっちゃ重い重いファンだから完全に同じ土俵で考えることはできないかもしれないけど、ファンがアーティストに好きを伝えることでお互い不幸になることはまずなくて、アーティストにとって自分にポジティブな言葉を向けるファンの存在は表現を続けていくうえでのモチベーションともなるだろうし認められたという実感が得られたりすると思う。先述の通りその好意がSNSの投稿なら見ました印するとプロモーションにもなる。ファンサにもなる。わかっている。

…わかっている、いま、1000字にわたってデモデモダッテしていることも。

“でも“!推しエゴサぬかりないことをわかっていながら、推しの名前をわざわざ検索しやすいように打ち込んで好き好き超好きこの曲超かっこいいするの、なんだか“見つけて感“が出ちゃうんじゃないかと思うとすごく恥ずかしい。

上記のような葛藤?があって、あんまり個が認識されなさそうなファンレターに託すかたちに落ち着くんだけどまたファンレターもたくさん読むのは大変だろうと短め短めを心がけてあんまり書けなかったりとかして。なんかここまでほんとキモい。これからもキモい。すいません。

恥ずかしい怖いとかいろいろ言ったけど私も名前を入れてツイートする時がある。ライブやイベントに足を運んだあと、超楽しかった!という気持ちはなんか見つけて感が出てたとしても届けばいいなと思ってしまう。音源に関してもおんなじように反応が気になってると思うから、そう変わらないことなんだけど何が違うんだろう。感情が昂ぶって気が大きくなっているだけなのかもしれない。だとしたらめちゃ恥ずかしいな。

今日ずっとこういうことを考えていて、自分なりに好きな理由や好きな所とかもあるけど本人はどう感じるんだろう?とか負の感情が制作の原動力になってるとしても彼らのプラスの感情に働きかける言葉を伝えたいなとかもう、すごい宇宙〜〜〜ってなってきて、出口がないしこれという正解はない。結局は迷惑かけずに彼らがおいしいもの食べれるように活動が続くように応援していくことだと思います。追いかけるものができてからの人生はキモさに磨きがかかっていくばかりだけど楽しいです。好きなものが増えていくのもすごく楽しいです。これからも好きな人たちが「やってきてよかった」と思える景色を構成する微粒子をやっていきたいです。それでわたしも微粒子やっててよかった〜〜!って思えてたらなお良い。

一気に書いたらすっきりしたけど睡眠時間が減りました。

明日も仕事です。さよなら。